研修費・資格取得費用の返還を求められたら
退職を伝えたときに「入社時の研修費を返してもらう」「資格の取得費用を精算する」と言われることがあります。 就業規則や入社時の誓約書に返還条項が入っていることも珍しくありません。 この種の定めをどう見るかの出発点になるのが、労働基準法16条です。
このページで参照している法令・資料
- 労働基準法16条(賠償予定の禁止)
- 労働基準法24条1項(賃金の支払・全額払いの原則)
- 労働基準法115条・同法附則143条3項(賃金請求権の時効)
- 民法627条1項(期間の定めのない雇用の解約の申入れ)
- 厚生労働省 総合労働相談コーナーのご案内
労働基準法16条が禁じていること
労働基準法16条(賠償予定の禁止)
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
禁じられているのはあらかじめ金額を決めておくことです。 実際に損害が生じたかどうか、いくらの損害だったかを問わずに支払わせる約束が、 労働者を職場に縛りつける道具になることを防ぐ規定です。
そのため、返還条項が16条に触れるかどうかは、条項の見出しが「返還」か「違約金」かではなく、実質として何をさせているかで考えることになります。 辞めるという選択に対して金銭の負担が結びついていて、 その負担が退職を思いとどまらせる働きをしているなら、16条が問題になります。
「返還」と評価される余地もある
他方で、会社が費用を立て替え、労働者がそれを返す約束をしたと評価できる場合もあります。 労働者本人が希望して、他社でも通用する資格を取り、 費用は本来自分で負担すべきものだったが会社が貸し付けた、という関係が実態としてある場合です。 この場合は、退職に対する制裁ではなく貸付金の返済の問題になります。
実際の事案は、この2つの間のどこかに位置することがほとんどです。 そのため一律に「返さなくてよい」「返さなければならない」と決まるものではなく、 次の点を具体的に見ていくことになります。
確認すべき5つの点
1. その研修は誰のために行われたか
業務に必要だから会社が受けさせたのか、労働者本人の希望で受けたのか。会社の業務遂行のために必要な費用は、本来使用者が負担すべきものと評価されやすくなります
2. 受講を断れたか
業務命令で参加が義務づけられていたのか、任意の応募だったのか。断る選択肢が実際になかった場合、労働者が自ら費用を負担する約束をしたとは評価しにくくなります
3. 取得したものが他社でも通用するか
国家資格や汎用的な技能のように転職しても価値が残るものか、その会社の社内手順に限られたものか。後者ほど会社側の負担すべき費用に近づきます
4. 返還額と拘束期間のバランス
実費を超える金額が設定されていないか、勤続に応じて減額される仕組みがあるか、拘束される期間が長すぎないか。返還の負担が重いほど、辞めるという選択を事実上封じる働きをします
5. 事前に説明され、合意していたか
費用の額と返還条件を、受講前に書面で示されていたか。入社後に一方的に規程が変わっていないか。合意の有無と時期は記録で確認してください
これらは、返還の約束が実質的に退職の自由を縛るものになっていないかを見るための材料です。 会社の言い分をそのまま受け入れる前に、手元の書類で一つずつ確認してください。
給与からの天引きは別の問題
返還義務があるかどうかとは別に、最後の給与から差し引くことが許されるかという論点があります。 労働基準法24条1項は、賃金は通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならないと定めています。
控除が認められるのは、法令や労働協約に別段の定めがある場合と、 その事業場の過半数で組織する労働組合(ないときは労働者の過半数を代表する者)との書面による協定がある場合に限られます。
返還義務の有無自体に争いがある段階で会社が一方的に差し引けば、全額払いの原則の問題になります。 退職時の賃金の支払いについては退職時の給与・貸与品の精算で解説しています。
辞めること自体は妨げられない
返還の話がまとまっていないことを理由に、退職そのものを止めることはできません。 民法627条1項は、期間の定めのない雇用について、当事者はいつでも解約の申入れをすることができ、申入れの日から2週間を経過することによって雇用は終了すると定めています。
費用の精算は退職後にも続けられる話であって、退職の効力とは別の問題です。 詳しくは民法627条の2週間ルールと退職届が受理されない場合の対処法をご覧ください。
相談先
- 総合労働相談コーナー: 各都道府県労働局と労働基準監督署内に設置されています。労働条件全般について無料で相談できます
- 労働基準監督署: 労働基準法違反に関することが窓口です。給与からの一方的な控除など24条の問題を含みます
- 法テラス・弁護士: 金額が大きい場合や、支払いを強く求められて話し合いが進まない場合
相談の前に、就業規則の該当条項、入社時に署名した誓約書、 研修の案内や受講指示のメール、給与明細を手元にそろえておくと話が早く進みます。
よくある質問
Q. 誓約書にサインしてしまいました。もう争えませんか?
サインしたという事実だけで結論が決まるわけではありません。 労働基準法16条は当事者の合意があっても禁止される内容を定めた規定なので、 合意していたことが直ちに有効性を意味するものではないからです。 署名した時期、そのときに説明された内容、断る余地があったかを整理して相談してください。
Q. 引っ越し費用や社宅の敷金の返還を求められました
考え方は研修費と同じです。会社の都合による赴任のために生じた費用なのか、 労働者本人の利益のための貸付なのか、 そして返還の約束が辞めるという選択に結びついた負担になっていないかを見ていきます。 費用の性質と、負担の取り決めがいつどのように行われたかを確認してください。
Q. すでに支払ってしまった分は取り戻せますか?
支払いの経緯によります。給与から控除された分については、 賃金の請求権として扱われる場合があり、その時効は労働基準法115条と附則143条3項により 当分の間3年です(退職手当は5年)。 いつ、いくら、どのような名目で差し引かれたかが分かる給与明細を保管しておいてください。 未払い賃金の考え方は退職後に未払い残業代を請求できる期間で解説しています。